1994年、オリックス現役時代の中嶋監督。肝の据わった男だ オリックスを25年ぶりのリーグ優勝に導いた中嶋聡監督(52)。2年連続最下位のチームを就任1年目で再建した指揮官の人物像を、縁の深い人たちが明かす連載「マスク越しの素顔」。第3回は、中嶋監督のオリックスでの現役時代に球団広報を務めた岡田良樹氏(60)=現「ダノックス」ディレクター=が、その心のタフネスぶりを語った。
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今の彼の姿は、若いころから十分に想像できました。初めて会ったのは1989年。オリックス本社から球団に広報として出向したときです。
彼は3年目。まだ20歳で、藤田(浩雅)との競争の中に入れられて、正捕手を目指しているときでした。上田利治監督と中沢伸二コーチから毎日、リードのことを言われていましたね。
でも、何を言われてもへこたれないんです。「僕はこう思います」と自分の意見を言うこともあって、肝っ玉の据わった子だなという印象を受けました。
一番覚えているのは、仰木彬監督の2年目(95年)です。西武戦の遠征で、第1戦の夜、仰木監督と私が外で食事をしていて門限に遅れて立川の宿舎に戻ったとき、監督が「岡田、裏から入ろう」と言ったんです。選手に見られたらマズイですからね。監督も私も、こっそりと裏口から入りました。そうしたら、ホテルの正面玄関から堂々と入ってくるヤツ(中嶋)に遭遇したんです。
95年は、高田(誠、91年に藤田との交換トレードで巨人から加入)と、三輪(隆、神戸製鋼から94年ドラフト2位で入団)のスタメン起用が増え始めていました。
その日の試合も中嶋はベンチスタートで、そんんな時期に門限破りを監督に目撃されたのだから、これでまたしばらく出番はないなと私は思っていました。中嶋もそうだったろうと思います。翌日の西武球場での試合前の練習では、まったく〝覇気〟を感じさせない動きでした。ところが仰木監督は、中嶋をスタメンに戻したんです。使う監督もすごいけど、中嶋もすごかった。予期していない出番だったはずなのに、投手をしっかりリードして、タイムリーも打って大活躍したんです。
落ち込んでも、厳しい状況のときでも、へこまない。この連載の第1回(29日付)で星野伸之さんがふれていた右足骨折の大けが(93年7月7日、ロッテ戦での本塁クロスプレー)のあともそうでした。
千葉遠征から戻った私は、神戸市内の病院に入院していた中嶋を見舞いにいったんです。今度ばかりは落ち込んでいるだろうと思って病室のドアを開けたら、ベッドの横に漫画が山積みになっていました。
「だって、することなくて、ヒマで」
こちらが拍子抜けするくらい、あっけらかんとしていました。落ち込むということを知らないタフな人間です。
シーズン中、若手がミスをして負けても、終わったことはしょうがない、次やり返せといった発言を繰り返していました。強がりではない。あれこそが中嶋聡だと思います。上田監督、中沢さん、そして山田(久志)さんや福本(豊)さん、佐藤義則さんたちに鍛えられて、阪急伝統のバンカラさも持ち合わせています。2軍監督で戻ってきたときから、こういう日が来ると思っていました。この先、何か困難なことが起きても、彼なら乗り越えます。また強いオリックスを築いてくれると期待しています。
■岡田 良樹(おかだ・よしき) 1961(昭和36)年5月17日生まれ、60歳。兵庫県出身。関大から85年オリックスに入社。阪急からオリックスに球団経営権が譲渡された89年に本社から出向し、球団広報を務めた。メジャーに挑戦したイチローに請われて2002年に退社し、イチローらトップ選手のマネジメントをする「バウ企画」を設立。イチローの現役引退後はバウ企画の業務を縮小し、現在はダノンの冠で知られるJRAの競走馬を所有する「ダノックス」でディレクターを務め、セレクトセールの入札や同社の運営に中心メンバーとしてかかわっている。
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