東京五輪出場選手へ贈る「箴言三か条」をしたためた三宅義信氏(撮影・只木信昭)

東京五輪に向けて調整のラストスパートを進める選手たちへ、レジェンドが金言を贈った。1964年東京五輪重量挙げフェザー級金メダリストの三宅義信・東京国際大特命教授(81)が14日までに、本紙の取材に応じた。新型コロナウイルスによる大会の1年延期という前代未聞の事態に振り回された選手に、「自分に勝つこと」を説いた。(取材構成・只木信昭)

■本番へ向けた3カ条

同じ東京で57年前に開かれた五輪で、日本の金メダル第1号だった三宅氏。今夏の大会に出場する選手へのエールを求めると、3カ条を色紙にしたためた。

「諦めない精神」「継続は力なり」「己を信じた不動の姿勢」

日本が経済的に発展する中で行われた1964年大会。希望に満ちた開催だった。一方、今大会はコロナ禍という非常事態で1年延期され、いまだ収束せず開催への賛否が渦巻く中で開幕を迎える。

「今回の五輪については言葉がないね」。レジェンドは現役選手に思いを寄せる。「五輪うんぬんじゃなく、自分との闘いだ。出番までに1キロでも1秒でも、少しでも前向きにやれるような体づくりをしておくこと。何かを選手に伝えるなら、これしかない」。

東京五輪重量挙げフェザー級で金メダルを獲得した三宅義信。日本人選手の金メダル第1号となった=1964年10月12日、渋谷公会堂

■挫折を何倍もの力に

三宅氏は4度五輪に出場し、金メダル2、銀メダル1を獲得。2連覇した68年メキシコ市大会では銅メダルの弟、義行氏(現日本協会会長)とともに表彰台に立った。きょうだいが個人種目で同時にメダルを獲得した、日本唯一の例だ。

そんなレジェンドも曲折を経験した。法大3年で出た60年ローマ五輪はバンタム級(56キロ以下)で銀メダル。「当時の世界記録は345キロ(プレス=後に廃止、スナッチ、クリーン&ジャークの合計)。私はトレーニングで360キロを上げているから金メダルだと思っていたが、甘かった」。

初の海外遠征が五輪だった。試合の3週間前に体調のピークを迎えるなど調整に失敗し、試合前夜は興奮して寝不足。経験の少なさが響いた。9回の試技で成功は3回だけだった。

「挫折するから創意工夫するんだ」。4年後の東京五輪へ、「行」と呼ぶ強化計画をスタートした。減量に苦しまないフェザー級(60キロ以下)へ転向。栄養や医科学の知識を学び、海外のライバルたちの情報を収集する。計画が順調だったわけではないが、62年入隊の自衛隊体育学校で設備を整えるよう求めるなど、可能な限り勝てる環境を作り上げた。

■大会序盤に変更された競技

ローマまで大会日程の終盤だった競技は、東京では序盤に変更された。三宅氏を金第1号にして盛り上げようという主催者側の思惑だが、プレッシャーの中で目指したのは「金の上の〝ダイヤモンド〟」。試技をすべて成功させるパーフェクトゲームが「宿命だと思った。成功すれば天から恵みがある」。結果、9回すべて成功で397・5キロの世界新記録。金メダル以上を目指し、見事にかなえた。

冒頭の金言は、そんな経験が生きている。「(社会状況が)どうあろうと、トレーニングはあきらめず続けていかないといけない。継続は力なり」。その上で自らを信じる。そう訴えた。

◆三宅 義信(みやけ・よしのぶ)

 1939(昭和14)年11月24日生まれ、81歳。宮城県村田町出身。大河原高(現・大河原商)で重量挙げを始め、法大-自衛隊体育学校。60年ローマ五輪のバンタム級で銀メダル。フェザー級に転向し64年東京、68年メキシコ市で五輪2連覇。72年ミュンヘン五輪後に引退。自衛隊体育学校校長を最後に97年で退官した。現在は東京国際大特命教授、同大ウエイトリフティング部監督。

★5度目の宏実へ

今大会では姪(義行氏の長女)で女子49キロ級の宏実(いちご)が、日本の女子で史上2人目となる5度目の五輪出場を果たす。「(重量挙げで)5回は例がないからね。出るだけで立派なもんだ」と三宅氏は目を細める。宏実は2012年ロンドン五輪で銀、16年リオデジャネイロ五輪で銅メダルを獲得したが、すでに35歳。三宅氏は「勝敗は関係ない。失格せず、最後まで力を出せることを祈るだけ」とした。

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