1977年5月、試合に勝って握手をする南海時代の江夏氏(右)と野村さん。場所は大阪球場だ 2月に他界した野村克也さんの遺品などを、「南海ホークスメモリアルギャラリー」に展示する「おかえり!ノムさん 大阪球場(なんばパークス)に。」プロジェクトが始まり、ノムさんゆかりの人たちから喜びの声があがっている。「おかえりノムさん 南海メモリー」と題し、ホークスの大スターとのふれあいをつづる新連載。第1回は通算206勝投手の江夏豊氏(72)。伝説の左腕が「野球人生後半の礎を築いてくれた人」との思い出を振り返った。
居るべき場所に野村さんがいないことは知っていた。いろんなことがあったらしい。「らしい」と表現したのは、詳しく知らないから。私が南海に移籍した1976年よりずっと前の話。ひと回り以上年上の、監督兼4番という大先輩の個人的な話を、あれこれ詮索できるはずもない。
ただ、今回の話を聞いて、心からよかったと思う。これが一番自然な形なんだから。同じ南海ホークスのユニホームで西鉄や阪急、巨人と戦ったメンバーが、同じ場所に飾られる。これが普通だ。野村さんは私にとって、野球人生の後半を作ってくれた大恩人。確執? 公私混同? 何を言ってるんだ。野球選手は野球をやればいい。過去は水に流せばいいし、墓の下まで持っていってはいけない。
75年の暮れ。阪神からまさかの通告を受けた。南海とのトレードだ、と。「阪神の江夏」として誇りを持って投げていたから、そりゃあショックだった。南海に行くつもりもなかった。そんなとき「一度だけでいいから南海の野村監督と食事をしてくれ」と頼まれた。
あれこれと口説かれるんだろうな、嫌だな、と思いつつ食事の場所に出向くと、いきなり予想外の話を切り出してきた。
「お前、あのとき、意識してボール球を放っただろう」
それは、その年の終盤の広島戦で1死満塁のピンチ。相手は強打者・衣笠祥雄だった。フルカウントから絶対に振ってくると思って、わざとボール球を投げた。それをテレビで見ていたらしい。