ノンフィクションライターの八木澤高明氏(47)が東京五輪・パラリンピックに関連する場所や人をたずねる大型連載の第2回は野球の後編。来年の五輪で決勝の舞台となる横浜にはかつてクリケット場があり、日本で初めて野球の試合が行われた。江戸時代末にあった遊郭にまでさかのぼる横浜スタジアムのルーツを探った。
晴れ渡った空の下、横浜スタジアムへ足を運んだ。横浜出身の私は、横浜大洋ホエールズ時代から何度も訪れている。JR関内駅を降り、しばらく歩くと交差点の先にどっしり鎮座しているのだが、少しばかり様子が違う。
来年開催される東京五輪の野球で、決勝を含む15試合の会場となったこともあり、右翼側と左翼側の外野席にウイング席が増設されるなど工事中。すでに右翼側が終わり、左翼側が急ピッチで進んでいた。
右翼ウイング席で、2019年シーズンに1試合だけ観戦した。外野席の上部に増設された位置。入場前は見づらいかと思ったが、スタンドはグラウンドに対して30度の勾配がついているので、心地よく見渡せた。その光景は15年ほど前、中東のヨルダンで見た古代ローマの円形劇場を思い起こさせた。
横浜は、日本で初めて野球の試合が行われた場所でもある。1871(明治4)年、場所は横浜スタジアムから歩いて5分ほどの港中学のあたりにあった「スワンプ・グラウンド」だった。
もともとは横浜に居留していたイギリス人の要望で沼地に造られたクリケット場。イギリス人たちは、本国のクリケット場を再現すべく、芝生の品種を研究し専門のグラウンドキーパーを置くなど、しっかり管理していた。明治時代に横浜で英字新聞を発行していた「ジャパンガゼット」が1889(明治22)年に作成した地図を見ると、横浜スタジアムの場所はクリケット場と記してある。
クリケットはイギリス発祥のスポーツであり、横浜に居留している外国人の中で一番多かったイギリス人の好みが優先されたことを物語っている。そもそも横浜にイギリス人が多かったのは、江戸時代末期(1862年)の生麦事件が発端。イギリス人の商人が殺害され、身辺警護のために2連隊が駐屯した。兵士たちがラグビーやクリケットなどを楽しむため、グラウンドの開設を求めたのだった。
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