■8月7日 アベベ(エチオピア)がゴールしておよそ3分後、国立競技場には円谷が2位で姿を見せた。嵐のような大歓声は続いてヒートリー(英国)が現れるとどよめきに変わり、残り200メートルで円谷が抜かれるとため息に…。うれしさと切なさが交錯した1964年東京五輪マラソンのドラマは日本人の脳裏に深く刻まれている。
勝負とはいえ疲れ切った円谷を容赦なく追う姿は、子供たちにはまるで鬼ごっこの鬼のように映ったのではないか。ベイジル・ヒートリーさん、85歳。英国内の親族宅で死去した。心不全とみられる。女子ゴルフの渋野日向子の快挙と時を同じくした英国発の悲しい方のニュースだった。
映像を見るとトラック勝負になっても円谷は一度も後ろを見ていない。「円谷は疲れていたが、もし振り返っていたら違った展開があったかもしれない」。後年ヒートリーさんはそう回顧した。しかし、円谷が「男は後ろを振り向くな」という父の教えを頑なに守り通したことで駆け引きは生まれなかったともいわれる。
故障や「次は金」の重圧から円谷幸吉さんが「父上様、母上様…もう走れません」と遺書を残し自ら命を断ったのは68年1月。「彼とはもっと話したかった」と悼んだヒートリーさんは東京五輪の銀メダルと、円谷さんの家族からの手紙を「人生の宝物」として大切に保管していたという。
2014年には福島・須賀川市の円谷記念館を訪れ兄の喜久造さんと対面。「子供たちに…」と差し出された色紙には心の友を思い浮かべ「勝利はすばらしい。友情はさらに特別なもの」と記した。楽しみにしていた来年の東京五輪観戦がかなわなかったのは残念でならない。 (今村忠)