ニューヨーク州生まれの「マーガレット・フォックス」。今はふるさと文化伝習館で過ごしている(撮影・梶川浩伸)
ギャラリーページで見る 新1万円札の顔になることが決まった「日本の資本主義の父」と称される実業家、渋沢栄一(1840~1931)。渋沢は外交の分野でも足跡を残しており、特に昭和初期、日米関係が悪化した際に、米側と呼応して人形を通じた友好を実行。「青い目の人形」と「答礼人形」がそれぞれ太平洋を渡った。しかし青い目の人形は第二次大戦中、敵の象徴として焼却されるなどして多くが姿を消した。埼玉県東秩父村の「マーガレット・フォックス」は数少ない生き残りだ。マーガレットがどうあの時代を過ごしたのか、足跡をたどる。
東秩父村は国連教育科学文化機関(ユネスコ)が世界無形文化遺産に登録した「細川紙」の産地として知られる。手漉き体験などができる同村の「和紙の里」の一角に「ふるさと文化伝習館」がある。ここに1体の人形が籐製の椅子に腰掛けている。
名前はマーガレット・フォックス。米国ニューヨーク州グレン生まれで、約92年前の1927(昭和2)年に来日した。マーガレットがやってきたのは大河原尋常高等小学校(現在の槻川小)。以来、校名が変わっても学校で大切に保管されてきて、伝習館ができたことから1989(平成元)年に移された。
大河原尋常高等小から東小となっていた当時の校長だった鶴川次作氏(85)は、「多くの人に見てもらうのが人形の本望ではないかと考えた」と話す。
では、マーガレットはどのようにして日本に来たのか。
それは日米の関係悪化がきっかけだった。日米関係は、日露戦争後の満州の利権を巡る日米の対立や日本からの大量の移民とそれを排斥する米国の法律制定(1924年=大正13年)などによって急速に暗雲が立ちこめた。
これを憂えた1人が米国人宣教師のシドニー・ルイス・ギューリック(1860~1945)。「世界の平和は子供から」とスローガンを掲げ、日本の子供たちに人形を贈る運動を始める。ギューリックは1888(明治20)年にキリスト教布教のために来日し、約25年間滞在していた日本通で、日本人の人形に対する特別な思いを理解していた。渋沢はギューリックから働きかけられて賛同。「日本国際児童親善会」を設立し、受け入れ窓口になった。
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