海外への逃避行を終えて、帰国後に謝罪会見を開いた高橋惠子。紆余曲折あった若いころの経験が人生の糧になっている (1980年撮影) 公演中の舞台から失踪し、死に場所を探しに海外へ行くつもりでしたが、その思いはすぐに消えました。
私が死んで、飛騨の家にある荷物を誰が片付けるのかと思ったとき、真っ先に浮かんだのは親でした。そう考えると死んではいけないと。
それでも、お付き合いをしていた方と大阪からタイの首都バンコクへ向かいました。引きずられるような流れで。どこに行く、何をするという目的はなかったのにね。
バンコクに着いても、舞台をすっぽかして申し訳ない気持ちでいっぱいでした。役作りで金髪に染めていたのですが、伸びて根本の黒い部分が目立ちはじめたので、到着翌日に美容院で「黒い部分までカットしてください」と言って、丸刈りのように短くしました。
もう戻らないと、退路を断つ意味で切りましたが、毎日、舞台の夢を見ました。つらかったですよ。ストレスで腎盂炎になりましたが、具合が悪いと舞台のことを忘れられるので、精神的には楽でした。
バンコクでは日本のメディアの方に追われました。芸能の取材をしている人ではなく、報道担当の人だったから、顔つきが違っていて殺気立っていましたね。
海外は結構、転々としました。タイ、シンガポール、インドネシア、トルコ、ギリシャ、マレーシア。どんな場所でも人に恵まれて、本当にゆっくりした時間を過ごし、自分を見つめ直すことができました。
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