恩人のジーコ氏(左)と手倉森。厳しい指導が、その後のサッカー人生の礎となった 1991年、住友金属(住金)に入団したジーコは、パチンコに興じていた選手たちをつかまえに店にやってきて、厳しく言い放ったものだ。
「ギャンブルには手を出すな。自分のことしか考えず、自分さえもうかればいいと思っている人間はみっともない」
その輪の中に、20代前半の私もいた。ジーコはプロになろうとしているわれわれに、心得を教えてくれた。しかし、当時はそんなことは言われたくない、自分の金でギャンブルをして何が悪いと反発し、聞く耳を持たなかった。素直に忠告を聞いていれば、92年に解雇された後、競馬で無一文になることもなかっただろう。
チームで不遇だった私はつまらなそうな顔をしていて、周囲から人が離れていくのがわかった。しかし、思い返すと、手を差しのべてくれた人もいたのだ。ジーコは試合に出ていない者も、ファミリーの一員として公平に接してくれた。私はブラジル留学から戻ったばかりでポルトガル語を多少話せたこともあり、マコト、マコトとよく声をかけてもらった。
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