北沢(中央、背番号8)は自身の引退試合でゴールを決め、カズ(左)とラモスから祝福された=2003年6月21日 とにかく生意気だったよ。あのままだったらサッカー人生は長く続かなかった。
修徳高を卒業した僕は1987年に本田技研(現JFLホンダFC)に入った。中学時代に名門・読売クラブ(現J2東京V)のジュニアユースに在籍していた縁で読売からの誘いもあったけど、本田技研は年俸3000万円ほど。読売はおよそ1300万円。まずは本田技研で成功してから読売に行ければいいと考えていた。
当時は読売クラブ(の下部組織)である程度できていた自負があった。あるとき、関塚コーチ(隆、現J2千葉監督)がアドバイスをくれたのに、「そんなの分かっているよ」と言い返してしまった。すごく優しい人がそれ以降、1年間は口をきいてくれなかった。
それでもリザーブリーグで得点王になったものだから、「俺の考えの方があっているじゃねえか」と。完全に天狗(てんぐ)だよね。自己中心的すぎて宮本監督(征勝さん、故人)に殴られたこともあった。
だから最初の2年間で公式戦出場はたったの7試合。さすがに「このままじゃクビになる」と思い始めた。そんなときに親父(弘仁さん、76)から「お前より宮本監督の方が、お前のことを知っているんじゃないか」と言われてハッとした。そこから自分を見つめ直した。態度を改め、積極的に先輩に話を聞きに行くこともした。