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2006.02.27 更新

 

皆川4位!50年ぶりメダルまであと30センチだった

皆川

攻めた。皆川があと一歩どころか、わずか100分の3秒差でメダル獲得はならず。でも、4年後の五輪へ、希望の光が見えた(撮影・奈須稔)

半世紀ぶりのメダルが逃げた。わずか、たった、ほんの100分の3秒で…。男子回転で皆川賢太郎(28)=アルビレックス新潟=がメダルに0秒03差の4位、湯浅直樹(22)=北海道東海大=も7位に入り、そろってアルペン日本勢50年ぶりの入賞を果たした。日本は56年コルティナダンペッツォ大会男子回転で、猪谷千春(現国際オリンピック委員会副会長)が銀メダルを獲得したのが唯一の入賞で、初のダブル入賞。今五輪、日本のメダルはフィギュアスケート女子の荒川静香(プリンスホテル)が獲得した金1個に終わった。

下は向かない。悔しさを超えた。戦いを終えた皆川の目には、未来を射るような力強さがあった。3位と100分の3秒差。長さにして約30センチ前後。銅メダルに届かなかったが、五輪の日本アルペン史上、2番目の好成績となる4位。3度目の五輪で、欧米の強豪と対等に勝負できた充実感が漂った。

「人生でこんな雰囲気はなかなか味わえない。でも、メダルはほしかったな」

しびれる展開だった。1回目は3位。1回目首位ライヒとは0秒07差。完全にメダル圏内につけた。ナイターレースとなった2回目。コースは驚くほどスピードの出る勾配で、旗門は64と多めに設定された。序盤、狭い間隔で続く旗門を素早く抜けたが、右のブーツのバックルが2つ外れるアクシデント。そんな“不運”も強い下半身で粘りきった。滑り終えた時点では、上位陣残り2人で3位。可能性を信じたが、最終滑走者ライヒがトップに入り、夢は消えた。

3回目の夢舞台だが、五輪には苦い思い出しかない。大学生で初出場した長野大会は途中棄権。02年ソルトレーク大会は旗門不通過で失格に終わった。その五輪直後の国内レース中、ひざの前十字じん帯を断裂。選手生命の危機にさらされた。競輪選手だった父・賢治さん(58)もじん帯のけがを経験し、「体にメスを入れると筋肉をゼロからつくり直さないといけない」と指摘した。競技生活に区切りをつける選択もあったが、けんの移植手術を決意した。

賢太郎の時代は終わったとさえ、いわれた。苦しいリハビリ生活。父の日課に倣い、毎朝欠かさずに走った。雨の日も吹雪の日もスキー場へ向かった。3年目。ひざをかばうトレーニングからバスケットボール、サッカーを取り入れ、急激な横方向への負荷をかけられるようになった。

その間、北海道・北照高校の後輩、佐々木明の台頭でエース降格。「これが与えられたストーリー。ボクは2番手」と受け流し、精神的な強さも身に付けた。今季は1月のワールドカップ(W杯)で自己最高の4位に入るなど再び浮上。しっかり五輪にピークを合わせてきた。

五輪の借りは、五輪でしか返せない。92年アルベールビル五輪以来、アルペン発祥のアルプスに、戻ってきたコースで堂々の4位。「弱い自分は脱皮した。早く勝ちを経験したい。バンクーバー五輪までやりたい」。世界で戦えるスラローマーの誕生。4年後に向かって、50年も止まっていた日本アルペン史が動き出す。

(伊藤隆)

■皆川 賢太郎(みながわ・けんたろう)

★生まれ 1977(昭和52)年5月17日、新潟・湯沢町、28歳
   ★スキー歴 小4から始め、北海道・北照高−日体大。97−98年シーズンでワールドカップデビュー
   ★サイズ 1メートル73、81キロ
   ★父譲り 新潟・苗場でペンションを経営する父・賢治さんは、元競輪A級1班の選手。現役時代は太ももの回りは70センチもあったそうで、「下半身の強さはおやじ譲り」という皆川は64センチ。父は26歳のときに前十字じん帯を断裂し、31歳で現役引退
   ★こだわり 昨年夏、1人でオーストリアにあるスキーメーカーの本社工場を訪ねた。自分にあったスキー板が見つかるまで、自力で交渉を続けた
   ★趣味 サーフィン、サッカー。フットサルのチームをつくって、週4回は試合をやっている。チーム名は「ファラオ」
   ★ポルシェ 車の運転が好きで、帰国後には新車のポルシェが納車される予定

★そのとき

皆川の地元、新潟・湯沢町では26日、テレビで活躍を見守った両親らが拍手で大健闘をたたえた。両親が経営するペンション食堂で知人ら約20人が応援。1回目で3位につけた皆川選手が2回目のスタート地点に登場すると空気が張り詰めた。母・則子さん(52)は1回目と同様、ハンカチで顔を覆い、画面を見ない。入賞が決まると、涙目で「大けがをしてからは苦しかったので…」と言った後は言葉にならなかった。父・賢治さんも「大満足」と笑顔。

■0秒03差

今大会のスピードスケート女子500メートルで4位に入った岡崎朋美(富士急)と3位に入った任慧とのタイム差は0秒05。計1000メートルを滑走して約65センチ、歩行ならほぼ1歩、まばたきほどの差しかつかなかった。男子回転4位・皆川と3位の選手との0秒03差は、猪谷千春IOC副委員長によれば、「距離にして約30センチ」と分析。ちなみに、ストップウオッチのスタートボタンを親指で押して、すぐに止めるまでにかかる時間は約0秒15前後。

★猪谷氏“次回は日の丸を”

皆川、湯浅の同時入賞の快挙に、56年コルティナダンペッツォ大会で銀メダルを獲得した猪谷千春氏(74)=国際オリンピック委員会副会長=も「日本スキー界の地盤が固まった」と感慨深げ。

今回は日本選手の活躍を予感し、自らメダルプレゼンターを希望し、試合会場で観戦。1回目にジョルジョ・ロッカ選手(イタリア)やボード・ミラー選手(米国)ら有力選手が途中棄権するのを見て、50年前を思いだし、「わたしの時も、強い選手が次々と失敗した。同じイタリア、何とか日本選手にメダルをかけられれば、と願った」と残念そう。猪谷副会長の銀メダル以降は、長く世界の高い壁にはね返され続けてきた日本アルペン陣。「今までは相手にされなかったが、(10年)バンクーバー五輪では日章旗を揚げてほしい」と期待を込めた。

■日本アルペン挑戦史

56年イタリア・コルティナダンペッツォ冬季五輪で、猪谷千春が男子回転で銀メダルを獲得。これが、日本にとって冬季五輪史上初のメダル。以後、五輪でのメダルはない。70年代後半に活躍した海和俊宏は日本で初めてW杯の第1シード入り。80年代の躍進は岡部哲也が支え、日本人初の表彰台に立った。90年代は木村公宣が回転の名手として時代を引き継いだ。