2006.02.26 更新
50年前に銀の猪谷氏−「メダル渡したかった」
男子回転の表彰式を終え、質問に答える猪谷千春氏=セストリエール(共同)
【セストリエール(イタリア)25日共同】「日本選手に何としても渡したかった」。25日のアルペンスキー男子回転の表彰式でメダルのプレゼンターを務めた猪谷千春・国際オリンピック委員会(IOC)副会長は残念がった。
1956年に同じイタリアのコルティナダンペッツォ五輪の男子回転の銀メダリスト。今回は日本選手の活躍を予感し、自らプレゼンターを希望したという。
4位の皆川賢太郎選手(28)と3位の選手との0秒03差を「距離にして30センチぐらいじゃないかな」と惜しむ一方「2人が入賞し日本のスキー界も地盤が固まった。次は日章旗を揚げてほしい」と語った。
★悲願は4年後に持ち越し−日本の挑戦は苦難の歴史
0秒03。猪谷千春の銀メダルから50年。アルペンスキーの悲願達成は、まばたきほどの差で逃げた。日本の挑戦はエースがけがや病で脱落する苦難の歴史でもあった。
世界は1968年グルノーブル五輪前に創設されたワールドカップ(W杯)を軸に回り始めた。キリー(フランス)、シュランツ(オーストリア)、トエニ(イタリア)。スターが次々生まれ、世界は層の厚みを加えた。グルノーブルで回転は当時あった予選を突破できず敗退。五輪を目指す日本は、W杯の連戦で実力を蓄えた世界に阻まれた。
だから、五輪の前にW杯で世界と互角に戦う必要があった。海和俊宏、岡部哲也、木村公宣。70年代終盤から、W杯第1シード入りする俊英がようやく生まれた。だが、絶頂期で次々にけがと病に倒れる。海和は80年レークプラシッド大会を控えた78年夏にアキレスけんを切り、岡部はアルベールビル大会前年にアレルギー性の病でダウン。長野五輪直後に木村はひざを負傷し脱落した。
五輪で結果を残せない日本の欠点はエース1人に負担が集中したことにもあった。佐々木明(ガーラ湯沢)と皆川賢太郎(アルビレックス新潟)。複数エースがそろったトリノは、初めて世界と戦える態勢を整えた五輪だった。100分の3秒の壁に阻まれたが、それもアルペンの特徴。悲願は4年後に持ち越された。(共同)

