2017.10.27 11:00

【二十歳のころ 永井大介(4)】船橋の厳しさが今の僕を育ててくれた

【二十歳のころ 永井大介(4)】

船橋の厳しさが今の僕を育ててくれた

特集:
二十歳のころ
2016年3月21日、船橋オート最後のレースで優勝を飾り、ウイニングラン

2016年3月21日、船橋オート最後のレースで優勝を飾り、ウイニングラン【拡大】

 二十歳のデビューから19年間、汗を流し、喜びも悲しみも味わったホームグラウンドが2016年3月、なくなりました。千葉県・船橋オートレースは廃止。売り上げ低迷による経営難。施設補強、走路改修などの費用捻出が困難になったという理由です。

 僕が37歳で船橋支部長に就いて4カ月後の14年8月12日、施行者の千葉県と船橋市が、16年3月末での廃止を発表。いちるの望みに託し、存続を訴え続けました。埼玉県・川口、群馬県・伊勢崎、静岡県・浜松、山口県・山陽、福岡県・飯塚の各オートレース場も署名運動をしてくれました。13万人の署名をいただき、働いている方々、ファンのためにも続けたかった。最後の支部長として、力不足でした。

 19歳の養成所時代、所属を希望したのは川口でした。施設がよかったし、賞金も高かったので。でも船橋に配属された。今では船橋でよかったと思っています。新人のころ、船橋にはオートレース界の一時代を築いた島田信広、片平巧選手がいました。超一流選手が間近でバチバチとやり合っている姿をみて、そのステージに行ってやる、という思いは湧かなかった。いきなり上は目指せない。課題をひとつずつクリアしていこう。そう心に決めた場所です。2009年、32歳のとき、初めて年間獲得賞金が1億円を超えました。船橋の厳しさが今の僕を育ててくれました。

 船橋の最後は、16年3月21日の特別GI、プレミアムカップ。オートレース界の上位96人で争われる大会で、同じ船橋所属の後輩、青山周平との激しい先頭争いを制して優勝。僕のベストレースだし、これからもベストレースであってほしい。入場者は約1万3000人。表彰台からたくさんの人で埋まった観客席を見ていたら、悲しくてたまらなくなって「ありがとうございます」と、心の中で叫び続けました。後日、施行者にお願いして、僕だけ走路に入れてもらい、弟子の坂井宏朱(ひろみ)が事故で亡くなった場所にお別れをしました。

 最近、ふと思うんです。二十歳のころから好きだった、船橋の食堂の野菜炒め定食を食べたいな、って。それで「ああ、なくなっちゃったんだ」と実感して。でも、新しく所属した川口で横断幕があったり、応援の手紙が来ると本当にうれしいんです。船橋時代からのファンはもちろん、川口に来てから応援してくださる方々が、一番のモチベーションになっています。船橋はなくなったけれど、永井大介を応援してくれる。毎回勝てるわけではないけれど、期待に応えるために、いい準備をして、そして、いいパフォーマンスをしたいですね。

 今の時代は、自分はこうですから、と決めつけている若い人が多いのかな。でも、最初からはできないんです。二十歳の僕は全然、遅かった。仕事をしながら青学大にも通っていた。可能性はたくさんあります。若いころはすぐに結果を求めるのではなく、自分が駄目だと思うことにしっかりと向き合って、将来の自分を見据えた努力をしてほしい。自分をもつのは40歳を過ぎてから、いや、その先でもいいんです。自分と闘っていくことが、自分を成長させてくれるはずです。(おわり)

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