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【二十歳のころ 白井貴子氏(4)】「あまり練習しないけど強いチーム」日立へ

【二十歳のころ 白井貴子氏(4)】

「あまり練習しないけど強いチーム」日立へ

特集:
二十歳のころ
1973年7月、東京・八王子市の中学校体育館で、日立の山田監督(後ろ)と準備運動する白井さん。倉紡の承諾を得るまでチームに合流できず、独自で練習していた 

1973年7月、東京・八王子市の中学校体育館で、日立の山田監督(後ろ)と準備運動する白井さん。倉紡の承諾を得るまでチームに合流できず、独自で練習していた 【拡大】

 1972年、銀メダルに終わったミュンヘン五輪から帰国し、予定通り引退しました。気持ちの整理はついていました。

 いろんなチームから誘いは来ましたが、避け続けていました。といっても、まだ二十歳。就職しなきゃいけない。テニスやゴルフなど、自分を生かせる道を考えました。いったんバレーを離れたことで心に余裕ができ、他の人のプレーに「自分ならこうやる」と思うこともできました。

 10カ月もたつと「バレーを6年間やってきたんだから」と復帰を考えるようになりました。そんなときに思い出したのが日立武蔵の故山田重雄監督。17歳のころに声をかけられたこともありました。

 ミュンヘンで一緒だった日立武蔵の岡本真理子さんに聞くと「あまり練習しないけど強いチームだよ」と言うから「私にピッタリじゃない」と。それで山田先生に電話したら「W杯の予選会があるので会場に来てほしい」と言われました。相談するつもりで行ったら記者会見場が用意されていて、「白井貴子 日立入部発表会」とありました。73年7月1日のことです。

 山田先生は私の連絡を見越して、おぜん立てしていたんですね。岡本さんにも「白井から連絡があったら、そう言ってくれ」と話してあったそうです。どんなに頑張っても行きたい方に行けないことがある一方、他人が道をつくってくれることもある。その運命に乗るべきだと思いました。

 移籍には(引退まで所属した)倉紡の承諾が必要ですが、当時はある男子の移籍がアマチュア規定に触れ、協会幹部が辞任する問題が起きたばかり。バレー界は移籍に敏感になっていました。

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