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【二十歳のころ 白井貴子氏(2)】会社へ辞表…引退のつもりだった

【二十歳のころ 白井貴子氏(2)】

会社へ辞表…引退のつもりだった

特集:
二十歳のころ
1972年5月14日、東京体育館で行われた日ソ対抗バレーで、ソ連の高いブロックを相手にスパイクを打ち込む白井さん(13番) 

1972年5月14日、東京体育館で行われた日ソ対抗バレーで、ソ連の高いブロックを相手にスパイクを打ち込む白井さん(13番) 【拡大】

 18歳で全日本(日本代表)に初めて入りましたが、バレーを始めるのが中2と遅かった私には技術が全然なく、先輩方とは比較にならないほど下手だと思っていました。身長は1メートル80ほどで高かったけれど、筋力も体力もなくて、練習にもついていけない。あちこち故障もしていました。

 1971年12月開幕の実業団リーグでは、所属の倉紡倉敷が低迷。10月に練習で左腕を骨折した私は当初、出場できず、その後は治ってもいないのに添え木をしたまま出なきゃいけない状態でした。

 それ以前に、会社への不信感も芽生えていました。18歳だった71年の夏、全日本の欧州遠征から帰ると、倉紡倉敷の白井省治監督が解任されていたのです。日本リーグから実業団リーグへ降格した責任を取らされたのですが、監督の養女となって白井姓を名乗り、「この人についていこう」と思っていた私は、このショッキングな出来事を帰国まで知らされていませんでした。

 けがだらけの上に不信感。72年夏のミュンヘン五輪代表になんか選ばれない-。そう考えた私は会社に辞表を出し、岡山市の実家に帰りました。引退のつもりでしたよ。

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