2008年04月29日 更新

康生「精いっぱい戦った」 五輪出場逃し現役引退へ

観客の声援に応え、手を振り会場を後にする井上康生=29日午後、東京・日本武道館

観客の声援に応え、手を振り会場を後にする井上康生=29日午後、東京・日本武道館

試合後の亜希夫人=29日、日本武道館(撮影・山田俊介)

試合後の亜希夫人=29日、日本武道館(撮影・山田俊介)

 柔道の全日本選手権準々決勝で敗れ、北京五輪男子100キロ超級代表を逃した井上康生(29)=綜合警備保障=が引退する意向であることが29日、明らかになった。

 関係者によると、今後は指導者を目指し、海外留学も検討しているという。井上は試合後には「精いっぱい戦った。自分を出し尽くした。もう悔いはない」と話し、「(東海大の)先生方と話し合って結論を出したい」と明言を避けていた。6月の実業団の試合に出る可能性はあるという。

 井上の恩師である山下泰裕・東海大教授は「芸術的な内またで一時代を築いた。よくここまで頑張った。ご苦労さまと言いたい。苦しかった経験を指導者として生かしてほしい」と話した。

 井上は2000年のシドニー五輪男子100キロ級で金メダルを獲得。全日本選手権を3連覇、世界選手権も1999年から3連覇するなど、日本柔道界をけん引する存在だった。04年のアテネ五輪で敗れ、100キロ超級に転向したが、けがもあって苦戦が続いていた。

★康生、得意技返され「仕方ない」

 試合開始1時間前、井上は畳の上にジャージー姿で現れた。中央で大の字になって天井を見上げた。泣いても笑っても最後の大舞台に「体で感じていたかった」という。

 その6時間後、再び日本武道館の天井を仰いだ。準々決勝は左組みの高井に果敢に右の内またを仕掛けた。終盤に劣勢となっての残り10秒。内またで勝負に出たが、狙いすましたように透かされて技あり。そのまま横四方固めでがっちりと抑え込まれ、敗れた。

 昨秋の世界選手権と2月のフランス国際で敗れた後は号泣した。この日の試合後に涙はなかった。「得意技を返されたのだから仕方ない。自分を出し切った。本当に悔いはない」と万感の表情を浮かべた。

 アテネ五輪後に100キロ超級に転向し、北京五輪を目指してきた。願いはかなわなかったが「夢を追い続けてきたことはよかったと思う。成功に終わらなかったが、この経験は今後に生きてくる」と素直に受け入れた。

 17歳で全日本選手権に初出場してから、井上の輝かしい日々が始まった。あれから12年。最後も日本武道館だった。表彰式では割れんばかりの「コーセイ」コールを受けた。大粒の涙を流しながら、頭を深々と下げて畳を降りた。

★“最強”の夢だけかなわず

 世界選手権、五輪、全日本選手権の「三冠」を史上最年少の22歳で達成した井上の強さは、重いクラスにあっても内またなどの大技で一本勝ちできることにあった。ただそのスタイルが良くも悪くも現役生活を左右することになった。

 早い時期に多くのタイトルを手にした若武者は、一時期モチベーションを失って苦悩する。そこで見いだした目標は最重量級での挑戦。世界選手権の無差別級、五輪100キロ超級での金メダルを「世界最強の証し」と、井上なりに追求した。

 だが、階級変更後すぐの2005年1月に右胸の腱(けん)を断裂した。井上の体重はせいぜい110キロ。時には自身より20キロ近く大きな選手から一本勝ちを狙うことに体が悲鳴を上げた。ここから下降線をたどった。コーチで父の明さんは「康生にとっての『強さ』は試合に勝つことでなく、一本を取ること」と述懐する。

 “最強”の夢はかなわなかったが、一本にこだわるスタイルは、日本柔道の強さ、美しさを体現するものとして海外に影響を与えた。

 かつてフランスでの国際大会で、鮮やかな内またに観客総立ちで拍手が送られたことがあった。当時は組まずに足を取ってポイントを重ねるような変則柔道が国際的に流行。そんな中、美しさを伴う井上の強い柔道が世界を魅了した。全日本柔道連盟関係者によれば、最近は日本の「正統的柔道」が見直されているという。

 個性的な猛者がひしめく日本柔道史にあって、井上もまた特別な存在としてその名を刻むことになるだろう。