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【二十歳のころ 吉田義人氏(1)】明大に“強奪”されラグビー部入部

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吉田義人氏  大型連載の第25回は、ラグビー日本代表のトライゲッターとして活躍した吉田義人氏(48)。現在は男子7人制チーム・サムライセブン代表兼監督として五輪選手育成に力を注ぎ、サンケイスポーツ評論家も務める。19歳で日本代表入りして、スコットランドからの金星に貢献。明大ではライバル早大と名勝負を繰り広げ、日本ラグビーを盛り上げた二十歳のころ。“伝説の11番”の原点が、ここにある。

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 ラグビーファンにとっては、僕、吉田義人イコール明大というイメージが定着していると思う。明大で主将も務め、19歳で日本代表に選ばれた。でも、第一志望は日体大だった。高校卒業前に一転、明大に進学することになったんだ。

 当時の日体大は早慶明と並ぶ強豪だった。秋田工高のラグビー部監督は日体大OBで、僕が「体育の先生になりたいから日体大に進学したい」と相談したら喜んでくれた。日体大は特待生という制度があって、僕に適用してくれるということだった。吉田家は経済的に大変だったから、両親も喜んでいた。

 それが、明大の北島忠治監督に漏れ伝わったらしい。明大OBから、北島監督が日体大の綿井永寿監督に「吉田は俺が預かる」と話したと聞かされた。それで明大OBがうちに乗り込んできた。何度も説得され、断り切れない状況だった。結構キツかったな。理不尽そのものですよ。最後は綿井監督が父に頭を下げて「忠さん(北島監督)に言われたら、われわれもどうすることもできない」と謝った。

 僕は自分の中で“落としどころ”を考えた。それが早明戦。子供のころからテレビで見ていた伝統の一戦が、1年に1度はある。頭でそう自分を納得させた。応援していたのは、実は早大だったんだけどね。

 そんな経緯で入学した明大で、1年の春から1軍で使ってもらった。でも、合宿所を追い出されたことがあった。6月にけがをして練習ができなくなり、チームのマネジャーから「合宿所から出ろ」と言われた。練習に出られないヤツは、合宿所を出なくてはいけない、というわけだ。

 東京に身寄りはなく、実家では父が体を壊したり、きょうだいが4人いて母が朝も晩も働きづめだったりして頼ることはできない。

 池袋で一人暮らしをしていた専門学校生のいとこのところに転がり込んだけど、お金はなかった。町を歩き回って落ちている空き瓶を300本くらい拾い、酒店に売ってお金にしたよ。米は親類の仕送りがあったので、業務用の格安のルーを買って毎日カレー。1カ月続いたかな。社会で生きていく大変さを思い知った経験だった。

 何不自由なく過ごしていたら、現役時代の勝つことへの執念や向上心は育まれなかったと思う。 (あすに続く)

吉田 義人(よしだ・よしひと)

 1969(昭和44)年2月16日生まれ、48歳。秋田・男鹿市出身。小3からラグビーを始め、秋田工高から明大に進学。伊勢丹からコロミエ(フランス)とプロ契約。その後三洋電機(現パナソニック)、サニックスを経て2003年度で現役を引退。日本代表30キャップ。91年第2回、95年第3回W杯に出場。09年に明大監督、14年から7人制男子チーム・サムライセブン代表兼監督。家族は音楽家の大西亜里夫人と長男。

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