【甲子園に恋して】太田幸司(上)三沢VS松山商、球史に残る決勝再試合「太田は泣かなかった」 - SANSPO.COM(サンスポ)

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【甲子園に恋して】太田幸司(上)三沢VS松山商、球史に残る決勝再試合「太田は泣かなかった」

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太田は第51回大会で1回戦から決勝再試合まで6試合を1人で投げ抜いた  まだ運動部の女性記者が珍しかった時代から産経新聞、サンケイスポーツのアマチュア野球担当として甲子園大会を取材して四半世紀。退職後も球場に足を運び続けた名取和美さんが、1969年の第51回大会での初取材から50回目の夏を迎え、選手や監督とのふれあい、甲子園の思い出を語る。

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 私が夏の甲子園大会を初めて取材したのは、1969年の第51回大会。念願の野球取材で、しかも三沢(青森)と松山商(愛媛)によって球史に残る決勝史上初の延長十八回引き分け再試合が行われた大会ですから、忘れようがありません。

 子供の頃から野球が好きだったので、高校時代にはスコアブックをつけていました。産経新聞社に入社したのも、野球記者になりたかったから。今では女性の野球記者は珍しくありませんが、当時は皆無といっていいほどでした。

 私も入社して4年間は野球に携われず、「会社をやめようかな」と思っていました。しかし、5年目に入る69年のセンバツで初めて取材ができて、甲子園とのお付き合いがスタートしました。

 夏の大会の注目は三沢のエース、太田幸司君でした。青森の県立校を3季連続の甲子園出場に導き、この大会も1回戦から1人で投げ抜き、東北勢初の全国制覇まであと1勝。ハーフの美少年は若い子から主婦まで幅広く女性の人気を集め、それまでいなかった「甲子園のアイドル」の出現でした。

 太田君はマウンドでの強気な投球とは別人のように、人前で話すのが苦手な子。自身の人気に戸惑い、報道陣を怖がっているように見えました。

 決勝の再試合も完投しましたが、2-4で敗戦。メモを見ながら電話で会社に「太田は泣かなかった」という原稿を送りました。東京の紙面は優勝した松山商よりも大きく扱ってくれて、うれしかったですね。

名取 和美(なとり・かずみ)

 埼玉県出身。慶大卒。1965年に産経新聞社に入社し、69年からアマチュア野球担当。87年にサンケイスポーツへ異動。計25年間にわたって甲子園大会で取材を続けた。96年に退社後も、OGとして球場に足を運ぶ。

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