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【高橋信之コラム】アジトから聖地巡礼、そして…。

【高橋信之コラム】

アジトから聖地巡礼、そして…。

特集:
高橋信之
多くの連邦美術計画のポスターが発注され、これもアーティストの仕事となった。

多くの連邦美術計画のポスターが発注され、これもアーティストの仕事となった。【拡大】

 安易なキャラクター街興しを憂い、一過性のブームとしての聖地巡礼とならないように、キャラクターを利用したコンテンツツーリズムを観光産業と結ぶために心がけたいことについて書きます。

 昨今、J-POPカルチャーを推進したいと思う中央官僚や地方公務員が知っておくべきこと。 それはアメリカの知財戦略の歴史だ。

 なかでも特に気にとめておきたい政策があった。

 『連邦美術計画』 

 行政官僚が知っておくべき海外の名政策のひとつが、この政策だ。 

 原語では、フェデラル・アート・プロジェクトと呼ばれ、FAPと略されている。

 1930年代のアメリカは、ニューヨークの株式不況に端を発した世界恐慌下の雇用政策として、芸術家の保護支援策を打ち出す。ニューディール政策の最重要政策としてWPA(雇用促進局)が失業者の救済施策である。

 彼らに仕事を与えるため、全米には100カ所もの「アートコミュニティセンター」「アートセンター」が作られたのだ。

 そこは公共の場に展開するパブリックアートの制作受託の仲介、集団制作のマネジメント、作品の発表展示、創作工房の提供、パトロンの紹介、作品の買い上げなどを行った「芸術家のためのハローワーク」であり、制作拠点であり、サロンであった。

 公的施設であるにもかかわらず、より仕事や商業に近づいた機能を持ち、美術館とギャラリーとグループアトリエを合わせた機能を持っていた。

 アートセンターのキュレーターは富裕層と若手芸術家とのマッチングもしていたというから、まさにギャラリーの機能を持っていたわけだ。

 さらに不況によって情操教育がないがしろにされている子どもたちへの美術教育のための教師として芸術家たちは雇用された。こどもアートスクールも盛んに開かれたという。

 その活動は1943年まで続けられ、その後もアートセンターは各都市各州の予算により、ある都市では継続、ある都市では廃止が決定された。

 公的支援で作られ購入されたアート作品は、そのアーティストの成長とともに価値を高めるので公有財産の増加にもなり、後に作品を美術館や個人蒐集家に売却することで収入にもなった。

【続きを読む】

  • 子どものための絵画教室もまたアーティストを教師として雇用して盛んに開催されている。
  • 装飾用のレプリカ彫刻工芸講座も開かれ、職業としての工芸作家を育成した。
  • こども絵画教室の美術展も開かれ、そこで育った子どもたちは第二次大戦後にアートやデザインの道に進んだものをいただろう。
  • ミシガン州の芸術家アルフレッド・カスターニュによる建設作業員のスケッチ。国民の暮らし、大恐慌、ニューディール事業の記録も芸術家が担った。
  • アートセンターの機能のうち、美術学校の要素は、かなり大きな存在となっていった。
  • 未就学児童にもこども絵画教室は開かれた。
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