2015.10.2 11:00

【私の失敗(4)】羽川豊、悪循環でドライバーイップスに

【私の失敗(4)】

羽川豊、悪循環でドライバーイップスに

特集:
私の失敗
1985年12月の羽川。ショットが曲がり、険しい顔の毎日だった

1985年12月の羽川。ショットが曲がり、険しい顔の毎日だった【拡大】

 そんなはずはない…。悲しくなりました。31歳になった1988年のオフ。不振にあえいでいた僕は、ジャンボ軍団の練習に参加しました。そこでジャンボ(尾崎将司)さんに野球のノックを打ってもらうと、何と3連続でトンネル。中学まで野球部でプロ野球選手を目指していたのに、信じられませんでした。でもそこで気がつきました。「腰が高いのか…」。下半身の動きが悪くなっていたのです。そこから肉体トレーニングを始めました。

 プロ2年目の81年に2勝、83年に1勝。82、83年は「マスターズ」に招待され、15位だった82年には「世界最高のレフティー」との称号をいただきました。けれど83年6月の「東北クラシック」を勝った後、8月くらいからおかしくなった。とにかくショットが曲がりました。84年にはシードを喪失。試合に出る権利さえ失ったのです。

 「世界」を目指した影響でした。「マスターズ」の舞台で、トップ選手との飛距離の差を痛感しました。振り方もパワーもすごい。20~30ヤードは置いていかれた。しかも2番アイアンで、僕のドライバーと同じくらい飛ばす。「どうやったら飛ばせるんだろう…」。15歳でゴルフを始めて、ほとんど独学でやってきた僕が出した答えは「振り回す」「強く打つ」でした。

 これが大失敗。振り回したことで、曲がるようになりました。そこで「曲がらないように」と思って打つと、今度は振り抜きが悪くなる。悪循環でした。飛ばすために「インパクトを強く」と意識し続け、練習もやりすぎた。腰など体に負担がかかっていました。当時は個人トレーナーなどいない時代。どこか痛くても「1日寝れば治る」とかいって、ケアなどしていなかった。これでは体も悲鳴をあげます。

 85年に杉原輝雄さんと同組で回った大会では、第1ラウンドの半分で棄権しました。右に左にと曲げ続けて、もうこれ以上迷惑をかけられないな、と。スイングの基礎、基準がないから、修正もききませんでした。

 そのころは、ドライバーを打つのが怖くなる、いわゆる「イップス」でした。ボールに当たる瞬間、悪いことが頭をよぎる。だれもいないところなら曲がらないのに、ギャラリーがいると曲がる。「あっちに行ってくれ。僕を見ないでくれ」と思っていました。プロゴルファーなのに…。

 不振の間はメンタルトレーニングなど、いろいろなことを試しましたが、何よりジャンボさんの門をたたいたことで、肉体強化の必要性を知ることができました。軍団の冬のトレーニングはダッシュやスクワット、腹筋、背筋…と非常に厳しい内容。ジャンボさんには「必死にやらないと結果は出ないぞ」と言われました。体を鍛えたおかげで、91年の「インペリアルトーナメント」で8年ぶりに優勝することができたのです。

(紙面から)

  • 1983年6月6日付のサンケイスポーツ紙。羽川のツアー3勝目を報じたが、次の優勝紙面は8年後になった