2015.10.1 11:00

【私の失敗(3)】羽川豊、倉本&湯原とのテレビ撮影“すっぽかし”

【私の失敗(3)】

羽川豊、倉本&湯原とのテレビ撮影“すっぽかし”

特集:
私の失敗
左から倉本、湯原、羽川。今から34年前、羽川が23歳だった1981年のワンシーンだ

左から倉本、湯原、羽川。今から34年前、羽川が23歳だった1981年のワンシーンだ【拡大】

 あれは倉本さんと湯原に悪いことをしたなあ…。ちょうど今の季節。思い出すと、本当に申し訳ない気持ちになります。プロ3年目、1982年9月の「全日空札幌オープン」(北海道・札幌ゴルフ倶楽部輪厚コース)を終えた翌日のことでした。

 大学(専大)を出てすぐの80年にプロになり、次の81年には「日本オープン」で優勝。82年4月のメジャー大会「マスターズ」にも招待されました。16歳でゴルフを始めて、24歳でオーガスタへ。順調でした。

 その頃の僕は、日本では毎試合優勝することしか考えていなかった。「全日空オープン」では最終日、一時トップに立ったのですが、終盤伸ばせず2打差で3位。優勝は鈴木規夫さんでした。

 「何で勝てなかったんだろう…」。千歳空港から、所属していた埼玉・霞ヶ関カンツリー倶楽部(CC)近くの家まで、ずっとそんなことを考えていました。どうやって飛行機に乗り、羽田空港からどうやって帰ったかも覚えていない。家に着いて、何をしたのかも…。そのまま寝てしまいました。

 そして次の日です。電話が鳴って起こされました。ボーッとしながら受話器を取ると、「羽川、どうした?」との声。一瞬、何のことか分かりませんでした。時間はもう昼前でしたね。

 実はその月曜日、霞ヶ関CCでテレビ番組の撮影が入っていたんです。「ニューウエーブ三羽烏(がらす)」といわれていた倉本昌弘さんと、同学年の湯原信光と3人での番組でした。「えっ!?」。完全に忘れていました。“すっぽかし”です。

 すぐにコースへ向かいました。みんな集まっていて、頭が上がりませんでした。あの頃は、いつもトーナメントのことばかり考えていました。よく言えば「勝利に対してどん欲」だったけど、余裕がなかったというか…。大体、最終日の前には応援してくれる人たちから「日曜の夜は札幌で祝勝会だぞ!」なんて声をかけられていて、「はい」と生返事していました。

 約束事を破るのは嫌いです。大学時代に鍛えられ、集合時間の2時間前には集まっていましたから。1人遅刻したら連帯責任で全員丸刈り、と決まっていましたが、1度も仲間に迷惑をかけたことはありませんでした。そんな自分が犯した大失敗…。それからは、手帳をちゃんとつけるようになりました。

 この82年は、プレー自体は順調でした。「マスターズ」では15位に入り、翌年の出場権を獲得。最終日の18番(パー4)で第2打を左のギャラリー席まで曲げ、格好良く締めくくれなかったのは残念でした。でも今思い返すと、その1打は大した失敗でもなかった。この後に待っていたのは、もっともっと大きな失敗でした。

(紙面から)

  • 1982年4月13日付のサンケイスポーツ紙。マスターズ初出場の羽川が、ニクラウスと並ぶ15位に食い込んだことを伝えた