2015.9.29 11:00

【私の失敗(1)】羽川豊、実家の工場閉鎖がゴルフと出会うきっかけに

【私の失敗(1)】

羽川豊、実家の工場閉鎖がゴルフと出会うきっかけに

特集:
私の失敗
若き日を振り返る羽川。明るく丁寧な語り口は、テレビ解説などでも好評だ 

若き日を振り返る羽川。明るく丁寧な語り口は、テレビ解説などでも好評だ 【拡大】

 プロゴルファーの羽川豊(57)はアマ時代から活躍し、プロ2年目の1981年にツアー2勝。翌82年の「マスターズ」では15位に入り、“世界のレフティー”とまで称された。しかしその後は低迷し、パットで手が動かなくなる「イップス」にも苦悩。そもそもゴルフの道に進んだのも「失敗」がきっかけだった。

 僕はお酒はほとんど飲まないし、たばこも吸いません。小学1年生のころに済ませて、失敗しているので…。

 栃木の実家は靴メーカー「アキレス」の下請け工場でした。約30人の従業員さんがいて、10人ほどが住み込み。東北から働きに来ていた元気なお姉さんたちと一緒の夕飯は、毎晩にぎやかで宴会のようでした。小1のとき「飲んでみる?」なんていわれて、水なのか酒なのか分からず飲んでしまった。次の朝は頭が痛いのなんの。「酒はやめよう」と決めました。たばこも同じ。冬の朝に吸わせてもらったけど「何でこんな煙を吸うんだろう」と思いましたね。

 子供のころ熱中したのは野球。中学では野球部で左投げ左打ちの投手でした。結構な球速を出したし、いいカーブも投げたから、三振をバンバン取っていた。家では巨人戦ばかり見て、あこがれたのは、やはり左投げの高橋一三さん。打者では王貞治さんでした。「将来は投手で巨人に入りたい」と考えていました。

 ところが、ひじを壊した。いわゆる「野球ひじ」で前のようには投げられなくなった。中3で県大会に出たけど、僕は控え投手。マウンドに立てず外野を守っているときに、野球がつまらなく感じました。体が思うようにならないことの辛さを初めて感じたときですね。野球は挫折して、何もやる気がなくなった。ちょうどそんなころ、ゴルフと出会ったんです。

 当時日本はオイルショックに見舞われたころ。うちの工場も影響を受けたようでした。経営が特別に苦しくなったというわけではないけど、従業員が次々と他の職場へ移ってしまったことで、工場の閉鎖を決めました。

 土地は残った。しかも裏山が東北自動車道建設の関係で整地された。そこでおやじ(米豊さん)が考えたのが、ゴルフ練習場でした。ゴルフなんてやったこともなかったのに…。僕が野球をあきらめたこととは無関係だったといいます。「練習場の造り方」みたいな本を読みあさり、とにかく150ヤード、20打席くらいのを造ってしまった。

 野球と同じ左でやればいいと、もらった左用のクラブで、毎日高校から帰ったら打ち続けました。午後10時まで5時間くらい打ち、1時間ボールを拾って寝る。ただただ面白かった。野球ひじ、石油危機、東北道…。いろいろなことが縁となり、ゴルフと向き合うことになりました。

羽川 豊(はがわ・ゆたか)

1957(昭和32)年12月8日生まれ、57歳。栃木・足利市出身。高1でゴルフを始める。専大時代に「日本学生」4年連続優勝。80年にプロ転向。レギュラーツアー通算5勝(81年に「日本オープン」など2勝、83年に1勝、91年に2勝)。82年「マスターズ」15位。2008年からシニアツアーに参戦し、11年「PGAフィランスロピーシニア」で20年ぶりのツアー優勝。シニアツアー通算3勝。家族は夫人と1男1女。日本では数少ない左打ちのプロゴルファー。1メートル80、78キロ。

(紙面から)

  • 1981年11月の「日本オープン」でツアー初優勝。羽川のプロ生活は順調に幕を開けた