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【二十歳のころ 五木ひろし(4)】勝ち抜けなかったら母の農業継ごうかとも

【二十歳のころ 五木ひろし(4)】

勝ち抜けなかったら母の農業継ごうかとも

特集:
二十歳のころ

 4度目の改名で五木ひろしとなる前の二十歳のころ。歌手としては売れなくても、新宿のサパークラブ「ボンゴ」で歌謡曲のギターの弾き語りが評判を呼び、半年ほどたっていました。

 今度は、銀座のクラブ「久爾(くに)」からも声がかかったのです。それからは午後7時から11時半まで「ボンゴ」、午前0時半から5時まで「久爾」。明け方に帰って寝る昼夜逆転の生活とはいえ、ようやく食べていけるようになりました。

 当時、僕を引き受けてくれるレコード会社はありませんでしたが、偶然にも「久爾」のママが元歌手で、弟さんがミノルフォンレコード(現徳間ジャパン)の社員。店にはミノルフォンの社長もしていた、後に国民栄誉賞を受賞する作曲家、遠藤実先生がお見えになっていたんです。

 その縁で、何度か社長室で話を聞く機会がありました。遠藤先生も僕と同じく売れなかったころ、東京で居酒屋をまわるギターの流しをしていた。冬の寒いとき、手がかじかんでギターを弾けない。温める手袋も暖房もない。仕方がないので、自分のおしっこで温めたそうです。

 僕の苦労など、苦労のうちに入らないと痛感しました。21歳になった僕は、遠藤先生の口利きでミノルフォンの所属に。3度目の正直で売れたいという願いを込め、「三谷謙」に改名し、再々デビューしました。

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