2017.8.23 11:00(1/2ページ)

【二十歳のころ 五木ひろし(2)】収入ゼロ…4畳半で“シャケ缶暮らし”

【二十歳のころ 五木ひろし(2)】

収入ゼロ…4畳半で“シャケ缶暮らし”

特集:
二十歳のころ

 歌手デビューしたものの、17歳の僕にとって最初の師匠で作曲家、上原げんと先生の急死は、思いもかけぬ悲しみと同時にショックでした。生活態度から歌唱方法まで、これから指導を受ける矢先でしたから…。

 気落ちした僕を引き受けてくれたのは、都はるみさんの「好きになった人」などで有名な作曲家、市川昭介先生。それから2年間、コロムビアで4枚のシングルを出しましたが、いずれもヒットせず。1967年、日本グラモフォン(現ユニバーサルミュージック)に移籍します。

 そこで、また新しい縁がありました。フジテレビのプロデューサーだった白鳥朝詠(ちょうえい)さんです。「好きになった人」の作詞もした方で、白鳥さんから「一条英一」という芸名をいただきました。

 「松山まさる」から心機一転改名し、再デビューとなりました。「俺を泣かせる夜の宿」など3曲出しましたが、またもヒットせず。所属事務所もコロムビア傘下から、西田佐知子さんや三田明さんの所属する東洋企画へ。でも、所属ではなく業務提携でした。

 そのころは契約してくれるレコード会社もなく、当然ヒット曲もない。仕事はほとんど来なくなり、生活の保障もまったくなくなりました。それでも、東洋企画の紹介などで九州のキャバレーをまわり、なんとか食いつなぎました。

 そのうち東洋企画からも離れ、完全フリーに。福井県から上京して3年たった19歳のころです。上京当時は新宿にある4畳半のアパートに住んでいましたが、次第に家賃が払えなくなり、次から次へと十数回、二十歳過ぎまで、安アパートへの引っ越しを繰り返しました。

【続きを読む】

今、あなたにオススメ
Recommended by
  1. サンスポ
  2. 芸能社会
  3. 芸能
  4. 【二十歳のころ 五木ひろし(2)】収入ゼロ…4畳半で“シャケ缶暮らし”