2017.5.23 10:00(1/2ページ)

【関西レジェンド伝】浜村淳(3)合わなかった東京の空気…大阪へ

【関西レジェンド伝】

浜村淳(3)合わなかった東京の空気…大阪へ

特集:
関西レジェンド伝
ナベプロ時代の浜村(左から2人目)はザ・ピーナッツ(右の2人)とひとつ屋根の下で生活

ナベプロ時代の浜村(左から2人目)はザ・ピーナッツ(右の2人)とひとつ屋根の下で生活【拡大】

 京都・四条河原町のジャズ喫茶「ベラミ」は渡辺プロダクションと提携していました。ナベプロから出演者を入れますよね。その中に「渡辺晋とシックス・ジョーズ」という、社長自らベースを弾くバンドがありました。

 その晋さんから直々に「うちに来ないか。うちは月給制で大きくなった会社なんだよ」と誘われた。当時は歩合制がほとんど。ナベプロは仕事が月に1回でも、30回あっても、そのまま。それが当時のミュージシャンにウケたんです。

 私は月6万円。大学出の新入社員が1万3000円くらいやった時代ですから、これは飛びつきますよね。ところが、「24000のキッス」がヒットした藤木孝さんという歌手は5万円やった。大売れに売れても5万円。怒って辞めてしもた。

 東京へ行くにあたって晋さんは「家に泊まれ。ただし、(ザ・)ピーナッツという双子はおるけど、それでもいいか」。向こうは嫌やったかもしれんけど、こっちは大喜びですよ(笑)。

 ピーナッツ・ショーの司会は私。それと、晋さんの奥さんが渡辺美佐さんでしょ。美佐さんの兄弟がやってるマナセプロダクションには水原弘さんとか森山加代子さん、坂本九さんとかがいた。その司会も私。

 東京には7、8年いましたかね。ハッキリ言いますと、あの頃の東京の空気は合わなかった。テレビ朝日が日本教育テレビ(NET)というてたころ、教育番組を50%以上、教養番組を30%以上やらないといけない義務があった。歌番組を持とうと、金曜の夜7時半から「ザ・リクエストショー」(1959年)を作った。初代の司会が私。でも、関西風の司会はうまくいきませんでした。

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