戻らないつもりの海外放浪…占術に従い帰国

二十歳のころ 高橋惠子(4)
海外への逃避行を終えて、帰国後に謝罪会見を開いた高橋惠子。紆余曲折あった若いころの経験が人生の糧になっている (1980年撮影)

 公演中の舞台から失踪し、死に場所を探しに海外へ行くつもりでしたが、その思いはすぐに消えました。

 私が死んで、飛騨の家にある荷物を誰が片付けるのかと思ったとき、真っ先に浮かんだのは親でした。そう考えると死んではいけないと。

 それでも、お付き合いをしていた方と大阪からタイの首都バンコクへ向かいました。引きずられるような流れで。どこに行く、何をするという目的はなかったのにね。

 バンコクに着いても、舞台をすっぽかして申し訳ない気持ちでいっぱいでした。役作りで金髪に染めていたのですが、伸びて根本の黒い部分が目立ちはじめたので、到着翌日に美容院で「黒い部分までカットしてください」と言って、丸刈りのように短くしました。

 もう戻らないと、退路を断つ意味で切りましたが、毎日、舞台の夢を見ました。つらかったですよ。ストレスで腎盂炎になりましたが、具合が悪いと舞台のことを忘れられるので、精神的には楽でした。

 バンコクでは日本のメディアの方に追われました。芸能の取材をしている人ではなく、報道担当の人だったから、顔つきが違っていて殺気立っていましたね。

 海外は結構、転々としました。タイ、シンガポール、インドネシア、トルコ、ギリシャ、マレーシア。どんな場所でも人に恵まれて、本当にゆっくりした時間を過ごし、自分を見つめ直すことができました。

 日本に帰るきっかけとなったのは、トルコで日本人の登山家に会ったことでした。占術の気学ができる方で、「これからどこに向かう?」と聞かれて「スペインです」と答えたら、「そっちへ行ったら命を落とす」と言われて。もともとは落とすつもりで来たんですけどね。私が日本に帰る日も、その方が決めたんですよ。

 戻るときは復帰しようなんて全く思っていませんでした。とにかく迷惑を掛けたことについて謝罪しよう。そのためだけに帰りました。

 謝罪会見を開き、関係者に損害賠償をしてから1年間謹慎しました。女優をやってはいけないとも思ったのですが、他に何ができるわけでもなく、良くも悪くも名前が知られているので、普通の仕事はできない。

 お付き合いをしていた方とも別れ、一人になっていたので、声をかけていただけるのであれば、また女優としてやっていこうと。迷惑を掛けたみなさんに少しでも恩返しをするためにも、1980年1月に活動を再開してからはすべての仕事を断らずにやりました。

 二十歳前後のころは、自分なりに精いっぱい正直に生きていたと思います。虚構の世界を生きる中で自分自身を見失いながらも、本当に望んでいること、真実、確かなものをつかみたいと、もがいていましたね。

 当時の経験が今の私を形成していますが、まだ完成しているわけではありません。きっと、未完成のままあの世にいくことになると思いますけど…。少しでも人に生きる活力や、感動、喜びを与えられるようになりたい。人は変わっていけるものだし、絶望なんて、ないですから。 (おわり)

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