北京五輪ニュース

2007年11月22日 更新

解任論サヨナラ!反町監督がパッション魂で“逆風”耐え抜く

選手に胴上げされた反町監督

選手に胴上げされた反町監督

 北京五輪アジア最終予選(21日、国立競技場)U−22サウジアラビア代表と0−0ドロー、C組首位を死守して4大会連続8度目の五輪出場を決めた反町ジャパン。大苦戦のアジア予選で解任論まで出た反町康治監督(43)だが、重大任務をまっとうした。来年8月、銅メダルを獲得した68年メキシコ五輪以来のメダルに挑む。

 十字架をふりほどくように両こぶしを突き上げた。スローガンに掲げた『情熱と誇り』を胸に、つかんだ五輪切符。反町監督は胴上げされ、2度宙に舞った。涙はない。普段はクールな男が、体全体で喜びを表した。

 「突然で、ちょっと言葉が見つかりませんが、お寒い中、この国立に集まっていただきありがとうございます。非常に苦しい予選でした。でも、北京に行けます!! これからもっと訓練して頑張りたいと思います!」

 4万超の観衆を前にした突然のお立ち台、選手を後に従えて絶叫した。そしてお約束のウオーターファイト。選手から水をかけられ、さらに顔がくしゃくしゃになった。

 ピッチ外の戦いもあった。これほど“身内”から批判された監督はほかにない。日本のレベル向上にともない“五輪出場は当たり前”と周囲から見られた。2次予選は唯一の全勝と順風満帆。が、3位だった8月の4カ国大会あたりから風向きが変わる。それまでも「ピチピチ感がない」と厳しかった日本協会の川淵三郎キャプテンをはじめ、批判が噴出した。

 「おれは子供を教えたかったんだよ。若年層の強化なくして日本サッカーの未来はないから」

 逆風に耐えられた理由の1つに、若き日にも描いた『情熱と誇り』があった。98年フランスW杯。解説者だった反町康治は現地で日本の惨敗を見た。「日本の足りないものを探そう」と同年秋、単身スペインへ。名門バルセロなどの門を叩いた。門前払いが続いたが、毎日練習場にかよううち熱意が買われた。見学したのは若手のBチーム。毎日、A4リポート用紙に書き留め、本場の理論を盗んだ。

 スペインでの約1年半で痛感したのは、育成の大切さ。「オレの仕事には、1人でも多くの選手をA代表に送り込むこともある」。批判を浴びても、今後の日本サッカーを担う北京五輪監督に天職を感じた。そしてこの日、育てた選手がたくましさをみせてくれた。

 「最初に送り出した選手が全員、足を止めずにやっていた。ドーハの悲劇(10月17日、カタールに逆転負け)、ドーハの経験があったからこそ」と胸を張った。

 目標は釜本邦茂が得点王を獲得した68年メキシコ五輪の銅メダル超えだ。「日本の悪い体質だが、五輪に行って万歳というのがある。参加することに意義があるという言葉は気にくわない。メダルに届くようにやる」と意気込んだ反町監督。かつて裸で一貫でスペインへ乗り込んだ男の情熱は、まだまだ冷めることはない。

(近藤安弘)

■反町康治(そりまち・やすはる)

 1964(昭和39)年3月8日、埼玉県浦和市(現さいたま市)生まれ、43歳。清水東高から慶大を経て88年に全日空(のちの横浜F)入団。その後、平塚(現湘南)に移籍し、97年に引退。01年に当時J2の新潟の監督に就任。03年にJ1昇格を果たし、人気クラブヘと成長させた。05年に勇退し、06年7月に北京五輪を目指すU−21代表監督に就任。A代表のコーチも兼ねる。家族は妻と一女。

★2大会連続アベック出場決定、男女で決勝T目指すぞ

 反町ジャパンが北京切符を獲得し、すでに五輪出場権をつかんでいる女子とのアベック出場が決まった。同時出場は96年アトランタ、04年アテネに続いて2大会連続で3度目。96年は男子2勝1敗、女子3敗でともに1次リーグ敗退。04年は男子1勝2敗で1次リーグ敗退、女子は1勝1敗で8強入りを果たしている。来年は“3度目の正直”で、そろって決勝トーナメント(準々決勝以降)をわかせてほしいところ。

★男女を通じ全カテゴリーで世界へ…クラブW杯にも登場

 U−22日本代表が北京五輪への出場を決めた。日本サッカー界は男女を通じ、年齢別を含めた世界の舞台に立つことになる。

 男子代表はA代表が2006年ドイツW杯に出場。ことし開催されたU−20、U−17の両W杯にも出場を果たした。

 女子はことしのW杯中国大会に出場し、すでに来年の北京行きも決まっている。また来年12月に開幕するU−20W杯、来年初開催されるU−17W杯の切符も既に手にしている。

 フットサルのW杯は前回の04年大会に出場、ビーチサッカーはことしのW杯ブラジル大会に出場した。ちなみにクラブW杯でも今年、日本勢として初めてJ1浦和が登場する。