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【二十歳のころ 野村克也氏(3)】ハワイで門限破り鶴岡監督からビンタ

【二十歳のころ 野村克也氏(3)】

ハワイで門限破り鶴岡監督からビンタ

特集:
二十歳のころ
1961年ごろの野村克也の打撃フォーム。長距離打者らしからぬ、太いバットを使っていたことがうかがえる

1961年ごろの野村克也の打撃フォーム。長距離打者らしからぬ、太いバットを使っていたことがうかがえる【拡大】

 捕手に復帰して心機一転、臨んだ3年目。1956(昭和31)年2月のキャンプで、転機が訪れた。20歳の冬だった。前年秋に肩の強化を認められ、この年は1軍のハワイキャンプに帯同を認められた。

 このキャンプは、南海にとって得るものはあまりなかった。温暖な気候を求めてハワイに向かったが、日本式の厳しい練習は暑さのためにかなわない。練習試合もそれほど組めるわけでもない。先輩たちは毎晩、常夏の島の夜を満喫していた。

 私は、月給こそ1万5000円に増えていたものの、まだまだ遊べる金があるわけでもなく、夜は相変わらずホテルで素振りをしていた。練習試合で何本か本塁打も放ち、それなりの手応えも得ていた。一日2ドルの日当が出たため、それをためておいて、帰国後にバットを買った。

 当時は、運動具メーカーとの用具提供契約もなく、選手は自腹で野球用具を購入する必要があった。バットを買う金もなかった入団当初、1軍選手のロッカールームを訪ねていって「バットをください」と先輩たちに頭を下げ、おさがりをもらってプレーしていた。

 長距離バッターであれば、遠心力を最大限に利用して打球を遠くへ飛ばせるように、グリップが細身でバットの先端部分が重く感じられるものがよく好まれる。だが、私が好んだのはバットの芯の手前から先端にかけて太いもの。したがって重心もややグリップ寄りにあり、中距離打者用ともいえるものだった。先輩からもらったおさがりのバットの中で、しっくりくるものを選んだためだ。

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