2007年12月04日 更新

星野ジャパン

舞った!男泣き闘将・星野!勝利の決め手は「スモールベースボール」

闘将・星野監督が、ついに台湾の夜空に舞った

闘将・星野監督が、ついに台湾の夜空に舞った


 (北京五輪アジア予選決勝リーグ、台湾2−10日本、日本3勝、3日、台湾・台中)闘将が泣いた。星野仙一監督(60)率いる日本が10−2で台湾を下して3連勝。来年8月の北京五輪出場を決めた。1点を追う七回無死満塁で意表をつく同点スクイズを決めるなど、燃える男の執念のさい配で五輪切符をつかみ取った。

(ペン・稲見誠 堀啓介 上野亮治 カメラ・浜坂達朗 浅野直哉)

 闘将が3度、宙に舞った。台湾の夜空がかすんで見える。星野仙一が再び男になった。「本当に選手のおかげ。頼もしかったね」。言葉はつまり、目に涙があふれた。

 連夜の死闘を制した。1−2で迎えた七回。無死満塁で9番・大村(ロッテ)。「監督を長い間やっていると、何かが見えるときがある」。カウント1−2からスクイズのサインを出した。大村がきっちり決めて同点。この回打者12人で6点を挙げ、一気に勝負を決めた。「パワーだけで野球は勝てない」。目標のスモールベースボールをアウエーでやってのけた。

 あれは3年前のこと。アテネ五輪を前に、当時の日本代表・長嶋茂雄監督が病に倒れた。関係者から「会いたい」と打診があったのは、その直後。多忙を理由に断った。「会えば(監督就任要請を)断れない。悩みぬいたけど、いくらミスターのチームでも引き受けるわけにはいかなかった」。描いていたのは、田淵、山本両コーチと同じユニホームを着る夢だった。

 その願いが1年前、ついにかなう。しかし全責任を負う監督として、あえて親友たちにキツく命じた。「選手のプライドを尊重しろ。選手に見られていることを忘れるな」。そんな約束が崩れかけたのは先月11日。宮崎合宿合流日の全体ミーティングに、山本コーチが現れたのは開始3分前だった。この登場は、選手を集める側の首脳陣としては遅刻を意味する。「エエか。選手は負けても帰れる場所がある。オレたちにはあるか? 負けたら何が待っているのか、よう考えてみい」。“仲良し内閣”という声を封じ込め、カツを入れた。

 そして、この夜。3人は同時にベンチを飛び出し、同じ足取りでラインをまたいだ。それは40年間の付き合いを示す呼吸であり、新たな一歩でもあった。「北京まで遠い。金メダル? それを目指してひとつになって頑張りたい」。これから始まる本当の挑戦。日の丸を引っ張るトロイカが、金メダルに向かって突っ走る。

★星野監督に聞く(試合直後のテレビ会見)

 −−北京ですね

 「行けますね。本当に選手のおかげですわ。これでもうゆっくりシーズンオフが過ごせるかな。北京まで遠い。きょう出たメンバーが来年しっかりけがなく、いい成績を残してくれて、また同じメンバーで行きたいね」

 −−選手が頑張った

 「頼もしかったね。本当にね(言葉をつまらせて目に涙)。田淵コーチが『つなぎつなぎで。一発に頼るんじゃなくて』と言っていた。いい選手だよ」

 −−これから金メダルを目指して

 「(唇をギュッと噛みしめ)うれしいね。それを目指して一つになって頑張ります」

 −−改めておめでとうございます

 「ほっとしましたね。きょう終わってみれば当たり前だと思うかもしれないが、きのうはこんなに底力があるのかというくらい、いいピッチングをしてくれた」

 −−日本中がテレビに釘づけです

 「日本にいるみなさんにハラハラドキドキさせてしまったけれど、終わってみればいい試合を見せられたかな」

 −−夢を与えた

 「これからも子ども達に夢と感動を与えていこうと思います。これからが大変だと思います」

■星野 仙一(ほしの・せんいち)

 1947(昭和22)年1月22日、岡山県生まれ、60歳。倉敷商高から明大を経て69年ドラフト1位で中日入団。中日のエースとして活躍した現役時代の通算成績は14年間で500試合に登板、146勝121敗34S、防御率3.60。タイトルは最高勝率1度、最多セーブ1度。74年に沢村賞を受賞。82年に現役引退。87−91年、96−01年は中日監督。02年阪神監督に就任し、03年にリーグ優勝を果たした後、監督を勇退。阪神オーナー付シニアディレクターとなった。監督通算は13年間で1744試合、920勝791敗33分、勝率.538。リーグ優勝3度。今年1月に五輪日本代表監督に就任。