元広島 ホプキンスさん
バットをメスに 43歳で整形外科医に転身

自らのオフィスで患者のX線写真を背に、広島時代を振り返るホプキンスさん(撮影・リョウ薮下)

1975年10月15日の巨人戦、優勝を決定づける3ランを放ったときの写真を手に感慨に浸るホプキンスさん。机には広島、南海の帽子が並ぶ

大事に倉庫に保管している広島のユニホームにキス
![]() 1975(昭和50)年10月15日 巨人−広島(後楽園) |
| 巨人は新浦、優勝に王手をかけていた広島は外木場が先発。広島は五回に1番・大下の左越え二塁打で先制した。1−0とリードして迎えた九回二死一、二塁。3番・ホプキンスが、左腕・高橋一のカウント2−3からの低めの速球をフルスイング。リーグ初優勝を決定づける32号3ランが、夕やみ迫る右翼席へライナーで消えた。今でもホプキンスさんは、この一発を「忘れられない本塁打」という。 |
野球ファンの記憶に残る名選手の今を追うオフ企画の第6弾は、1975(昭和50)年、広島のリーグ初優勝の原動力となったゲイル・ホプキンスさん(64)だ。医師を志し、現役時代から猛勉強を続け、引退後の43歳に整形外科医として開業。現在は医師だけでなく、大学では聖書学の准教授として講義もしている。文武両道を貫いた人生をリポートする。
(取材・構成 田代学)
★「まだ耳に残るシャモジの音」
プロ野球選手と医師と大学の先生。どれも簡単には就けない仕事をすべて経験した助っ人がいる。1975(昭和50)年に球団創立初のリーグ制覇を果たし、「赤ヘル旋風」を巻き起こした広島の主力メンバー、ホプキンスさんだ。
「野球は楽しい仕事だった。メジャーでの思い出と比較するのは難しいが、広島ファンの熱気は忘れられない。こちらが身の危険を感じるほどエキサイトしていた。(観客席で応援に使われた宮島名物の)シャモジの音は、まだ耳に残っている」
懐かしそうに30年以上前の興奮を語るホプキンスさんは現在、オハイオ州との境にあるウェストバージニア州パーカースバーグに住む。「ほとんど手術はしなくなった」というが、今も現役の整形外科医として患者を診察している。05年に建てた治療院の中には長女・リアさんが担当する内科のほか歯科も入っており、待合室には、度々日本を訪れているリアさんが撮影した宮島や原爆ドームの写真が飾られていた。
ホプキンスさんには医者以外に、もう1つの顔がある。治療院から車で約10分の高台にあるミッション系のオハイオバレー大では、聖書学の准教授として講義をしている。大学では理事会の会長も務めており、まさに地元の名士だ。
「大学に入るとき、野球選手、医師、宣教師のどれにもなりたかった。自分の可能性を最大限に引き出すためには目標を高く設定して努力すること。だから目標を3つとも達成できるようにベストを尽くした」
中でも野球選手から医師への転身が、長く厳しい道程だった。実は野球は、ドジャースでプレーした74年限りで一線を退き、医大に進む予定だった。しかし、広島のジョー・ルーツ監督に誘われて来日。日本でプレーしたために入学が遅れ、現役を完全に引退し、35歳となった78年まで学業に専念することができなかった。
一人前の医師になるには知識や技術だけでなく、不規則な研修医生活に耐えられる体力も必要。26歳以下という年齢制限で入学を断られた大学もあったが、ホプキンスさんは猛勉強で81年にシカゴのラッシュ医大を卒業。5年間、研修医を経て整形外科医となったのは43歳だった。
★ロッカーで勉強、文武両道を貫く
「野球をしていても勉強はできる。少し早く起きるとか、試合後に飲みに出掛けないとかね」というホプキンスさんの勉強ぶりは、大リーガーだったころから知られていた。ロッカールームで生物学や医学書を読み、遠征中は試合前に地元の大学の図書館へ出掛けた。広島時代も広島大の図書館や医学部に足を運んでいた。医師になるための勉強だけでなく、オフに単位も取って来日前年の74年に宗教学で修士号、帰米直後の77年には生物学で博士号を取得した。
野球への情熱も人一倍だった。広島1年目は、ひざや腰の痛みに耐えながら全試合に出場。まだ山本浩二が長距離打者として開花する直前だったため、本来の高打率を残す打撃スタイルを捨てて長打を狙い、本塁打と打点でチーム2冠王となった。実は広島との1年目の契約には「9月までに優勝の可能性が消えていたら帰国できる」という項目があったという。勉強しながら、チームとしては悲願だったリーグ初優勝にも貢献。周囲から、批判されるはずはなかった。
初優勝がかかった10月15日の巨人戦で1−0で迎えた九回に放った3ランは、今でも広島史上最も劇的な本塁打の1つに挙げられている。劇的な一打を放った直後に両手を突き上げた姿をとらえた写真パネルは、本がぎっしりと並べられた自宅の書斎と大学のオフィスに掲げられている。
まさに文武両道の鑑のような人生。かつてバットで広島ファンを熱狂させたホプキンスさんは今、その手で患者を救い、聖書学を通じて若者を育てている。
★今でも眠るのは平均3、4時間
文武両道を貫くホプキンスさんは睡眠法も独特だ。過酷なことで有名なマイナー時代にバスで片道17時間の移動を経験。「どこでも、どんな格好でも眠れるようになった。今でも眠るのは平均3、4時間。忙しいときもイスに座ったまま少し眠れば頭がクリアになる」。2月で65歳になるとは思えないほど精力的だ。
★家族そろってエリート
ホプキンス家は、そろってその道のスペシャリストだ。夫人のキャロラインさんは社会学と看護学で学士号、教育学で修士号を取得。長女のリアさんは内科医で、長男のゲイルJr.さんは整形外科医として活躍している。「(ホプキンス准教授は)元野球選手だったことは知っています。お医者さんになっただけでなく、大学でも教えているなんて信じられない。すごい方ですよ」とオハイオバレー大3年の日本人留学生、上田貞治さん(23)も尊敬のまなざしだった。
■ゲイル・ホプキンス(Gail Hopkins)
1943年2月19日、米オクラホマ州生まれ、64歳。ペパーダイン大から65年にホワイトソックス入団。68年にメジャーデビュー。ロイヤルズ、ドジャースを経て、75年に広島へ移籍。主に一塁手で打線の主軸として活躍し、同年のリーグ初優勝に貢献。77年南海へ移籍し、その年のオフに引退。引退後はシカゴ・ラッシュ医大に再入学し、整形外科医となった。右投げ左打ち。
【取材後記】
ホプキンスさんのエネルギッシュでインテリぶらない姿勢には、何度も感心させられた。取材依頼には「Tashiro−san(田代さん)」で始まる丁寧なメールが返信されてきた上、現在教壇に立っている大学も見学できるように学長の秘書に連絡してくれた。自宅にも招いてもらい、取材後には先に「無事に帰宅したかい?」と気遣うメールをいただいた。これだけの地位を築いた現在も3つめの修士号取得を目指して講義を受け、論文も書いているという。文武両道を貫いた経歴だけでなく、人物としても素晴らしかった。









◆今でもホプキンスさんと交流のある元広島の衣笠祥雄さん(60)
「すごい人で尊敬していますよ。しっかり人生設計をして実現されている。広島で“引退したら医師になる”と聞いたときは驚きました。(医師になったプロ野球選手は)米国では何人かいるみたいだけど、日本では考えられない。米国社会とのシステムの違いも感じますね」