関&轟、恩師墓前に捧げる男子初の「銅」

関一人、轟賢二郎 セーリングの男子470級で、関一人(28)、轟賢二郎(28)組=関東自動車工業=が銅メダルを獲得した。日本勢では96年アトランタ大会の重由美子、木下アリーシア組以来、男子では初めてのメダルとなった。〔写真:男子470級で銅メダルを獲得した関=左=と轟は、満面の笑み=共同



 風をつかんだ。海面を滑走する日の丸チーム。日本選手団のメダルラッシュは、海にまで及んだ。6日間、11レースにわたる死闘を乗り越えて、関、轟組がやった。胸に輝く銅メダルだ。

 前日の10レースを終えて、4位。3位のスウェーデン組とは1点差だった。体力的に劣る日本人にとって、風速8メートルまでの微風がベスト。その風域で迎えた最終レースでメダル圏内に入った。

 艇長の関は「本当にうれしい。あれよあれよという間にメダルが獲れた。得意の風域が続いたことが勝因です」。クルーの轟も「ミスを抑えるように心がけた。やるべきことをやり、それが結果になった」と話した。

 メダル獲得を誰より願っていたのは、今年4月25日にくも膜下出血のため68歳で急死した松田健次郎氏。日本チーム監督として陣頭指揮を執っていたが、五輪108日前に突然倒れた。関は6月11日の壮行会で右腕に喪章をつけ、会場中央の遺影に頭を下げた。

 「初めての五輪なのでどういう展開になるか分からないけど、松田先生のためにもいい成績を残したい」

 関は15歳だった90年北京アジア大会、単独種目のオプチミスト級で金メダルを獲得。“ヨットの申し子”は初めて味わう不安感を振り払い、01年から組んだ轟とのペアで男子初の快挙を達成した。誕生日が10日違いの28歳コンビは、恩師の墓前に最高の報告ができる。

★関 一人(せき・かずと)
 1975(昭和50)年9月11日、静岡県生まれ。28歳。男子470級スキッパー。父親の影響でヨットを始め、磯部一中時代の89年に早くも世界選手権で45位となり、翌年の北京アジア大会ではオプティミスト級で優勝。日本最年少の金メダリストとなる。02年アジア大会2位、03年世界選手権11位。趣味は散歩、レストランめぐり。1メートル67、58キロ。


★轟 賢二郎(とどろき・けんじろう)
 1975(昭和50)年9月1日、千葉県生まれ。28歳。男子470級クルー。霞ケ浦高時代からヨットで活躍。京産大卒業後、就職→退職と個人トレーニングを経て01年に関東自動車工業に入社。同年イタリアンオープン、全日本選手権優勝。02年釜山アジア大会、全日本選手権2位。03年全日本選手権優勝。趣味はワカメ取り、特技はカキの殻を開けること。1メートル74、75キロ。


 ◆小松一憲監督 「今大会はラッキー。ギリシャの風の神様が、われわれを歓迎してくれたようだ」

★470級★

 全長470センチのヨットが使用される2人乗りの種目で、6日間に11レースを行う。スタートからゴールまでにある4個のブイを定められた通りに回航。1位1点、2位2点と順位に応じた得点が与えられ、通算得点が少ない方が上位となる。11レースのうち5レース以上成立した場合は、最も悪い得点を除外して得点を計算する。ヨットの幅は1メートル68、帆面積は12・7平方メートル。

★五輪日本史★

 36年ベルリンで初参戦。56年メルボルンと68年メキシコには選手を派遣しなかった。最高の成績を残したのは女子470級の重由美子・木下アリーシア組。92年バルセロナ5位で日本ヨット初の入賞を果たし、96年アトランタでは銀メダルを獲得、00年シドニーでも8位入賞した。99年に日本ヨット協会と日本外洋帆走協会が統合し、日本セーリング連盟が発足している。

★そのとき★

 「まさかここまでくるとは」。関の母・喜子さん(55)は、千葉市の自宅で喜んだ。最終レース前にかかってきた国際電話で、関さんは「ひょっとしたらね」と話していたという。轟の京産大体育会ヨット部時代の主将だった神戸市の会社員渡辺信也さん(28)は「ありきたりな言葉ですが、おめでとうと言いたい」と祝福した。


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