山本博、日本人史上最多タイ5度目夏季五輪出場
男女ともにメダル獲得圏内に入っているのがアーチェリー。チームリーダーの山本博(41)は、日本人史上最多タイの5度目の夏季五輪出場となる。1984年ロサンゼルス大会では個人銅メダルに輝いた。酸いも甘いも知り尽くしたベテランが、2大会ぶりの五輪出場で再び勲章を目指す。〔写真左:アーチェリー五輪代表の(左から)山本、古川、濱野。視線の先にはメダルがある。同下:84年ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得した時の山本の雄姿。あの時の再現をしてみせる=AP〕
★ロサンゼルス大会で銅メダル獲得
射撃の蒲池猛夫、アーチェリーの松下和幹にならぶ史上最多タイの夏季五輪出場。41歳の山本センセイが、近代五輪発祥の地で的を射抜く。
「シドニー後も応援してくれる人がいて、出られるようになりました」。20年間における“2つの屈辱”が、血となり肉となった。日体大3年だった84年、初出場のロサンゼルス大会で銅メダルを獲得。アーチェリーでは2人目の快挙も、胸の内は晴れなかった。2位のマッキニー(米国)とは1点差。わずかなミスが、命とりになったのだ。今でこそメダルは額縁に入れ、自宅の玄関に飾っているが、一時は押し入れの奥で眠っていた。「あまり見るもんじゃないです、ボクのは銅ですもん。10円玉と一緒」と笑い飛ばす。
16年後の2000年4月、山本が再び転機を迎えた。シドニー五輪の最終予選で4位に終わり、まさかの代表落ち。1度は引退説まで出たが、我流だったフォームを変えた。普段は埼玉・大宮開成高で教壇に立ち、アーチェリー部顧問。練習の合間に弓を引くが、いつしか生徒に教えを請うようになっていた。
「先生の射ち方はああだ、こうだといろんな意見が出てくるんです。分からなかったことが、やっと分かるようになってきた。アテネが集大成ではないんですよ」
五輪初出場でメダルを獲った20年前の夢を、もう1度−。02年のアジア大会では、20年ぶりの優勝で復活をアピールした。「団体ではメダルを獲ってもおかしくない力がある。もう一度、20年ぶりがこないかなあ」。細めた視線の先は、アテネの的を捕らえている。
| ★山本 博(やまもと・ひろし) |
| 1962(昭和37)年10月31日、神奈川県生まれ、41歳。神奈川・保土ヶ谷中でアーチェリーを始め、中3で全日本選手権初出場。横浜高から日体大を経て、現在は埼玉・大宮開成高教諭。五輪初出場の84年ロサンゼルス大会で銅メダル獲得。学生時代には前人未到のインターハイ3連覇、インカレ4連覇を果たした。1メートル70、70キロ。 |
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| 【記録メモ】夏季五輪5度出場は山本を含め男子3人。女子の最多はアテネにも出場する柔道の谷亮子と、バレーとビーチバレーで各2度出場した高橋有紀子の4度。夏冬合計はスケートと自転車で計7度(冬4、夏3)の橋本聖子。体操の小野喬は4大会連続でメダルを獲得している |
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| ★五輪日本史 |
| 1947年に創立した日本洋弓会が、56年に日本アーチェリー協会と改称し、これを機に全国的に普及活動を始める。61年世界選手権(オスロ)に、日本チームが初参加。五輪では72年ミュンヘン大会から正式競技に。76年モントリオール大会で道永宏が銀、84年ロサンゼルス大会で山本博が銅メダルを獲得した。 |
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| ★ルール |
| 五輪では1つの標的を狙うターゲットアーチェリーで争う。標的の直径は1メートル22で、色の色環帯(中心から、黄、赤、青、黒、白色)が10個の得点帯に分割され、直径8センチの中心が10点、外に向かって1点ずつ少なくなる。発射地点からの距離は70メートル。ランキングラウンドを経て実施されるトーナメントでは1試合に18本、対戦する選手は40秒の制限時間で交互に射つ。団体戦は1チーム3人が1試合で計27本、20秒の制限時間で射つ |
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| ■アテネ五輪・アーチェリー代表メンバー■ |
| 氏 名 |
所 属 |
齢 |
| ▼男子 |
| 山本 博 | 大宮開成高教 |
41 |
| 濱野 裕二 | デオ デオ |
23 |
| 古川 高晴 | 近 大 |
19 |
| ▼女子 |
| 川内紗代子 | ミキハウス |
25 |
| 松下紗耶未 | ミキハウス |
22 |
| 河崎由加里 | デオ デオ |
27 |
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★世界の勢力
長年、アーチェリーで世界一に君臨しているのは韓国。とくに女子は無敵で、88年ソウル五輪で団体戦が導入されてから4連覇中。個人でも84年ロサンゼルスから金メダルを独占している。男子はシドニー五輪団体金の韓国を筆頭にイタリア、米国、日本などがしのぎを削る。
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