【アーチェリー】“中年の星”輝く! 山本20年ぶりメダルは「銀」

山本博 やった、山本先生! 不惑の銀メダリストだ! 男子個人決勝で日本選手最多5度目の五輪出場の山本博(41)=埼玉・大宮開成高教=が、ガリアッツォ(21)=イタリア=に敗れ2位。同種目で日本初の金メダルは逃したものの、84年ロサンゼルス五輪で銅メダルを獲得したベテランが、20年の時を経て、大殊勲の銀メダルを獲得した。〔写真:誇らしげに笑顔で銀メダルを見せる山本。41歳。まだまだ若い!=撮影・奈須稔。同下:相次ぐ強豪撃破に、山本はガッツポーズ連発=撮影・奈須稔



 静まり返った青空に、矢を射る音だけが響き渡る。会場のパナシナイコ競技場は、1896年の第1回近大五輪のメーンスタジアム。108年ぶりに戻ってきた発祥の地で、山本が銀メダルを獲得した。84年ロス五輪以来20年ぶり、日本史上最長の“ブランク”をへて、再び五輪メダリストに返り咲いた。

 「ビックリしました。今回は年をとっていたので、メダルは最後まで意識しませんでした」

山本博 前日18日の2回戦では世界選手権王者のフランジリ、この日の準々決勝では、世界選手権準Vの林東賢と優勝候補を次々と撃破。決勝でも20歳年下のガリアッツォと互角に渡り合った。

 日本史上最多タイの5度目の五輪出場。気が付けば41歳になっていた。2・0あった視力は1・5まで下がり、老眼と乱視にも悩まされる。趣味は大型バイクの運転だったが、今は転倒事故を恐れて鑑賞するだけ。ゴルフ、水彩画に興味を持ち始めている。食生活もいつしか、肉類を避けるようになった。

 見た目はオジサンだが、アーチェリーへの思いは20年前と同じだ。4年前の五輪国内最終選考会で敗れ、5大会連続出場を逃した。ショックで弓を持つこともできず、引退の2文字が何度もチラついた。シドニー五輪の期間中、当時8歳だった1人息子の純太郎くんは「どうして、お父さんが家にいるの?」と聞いてきた。ハッとわれに返った。山本は再び、五輪出場を目指した。矢の位置を確認するスコープの横には、愛息のシール写真がはってある。試合中はそこに目をやり、集中力を高めてきた。

 32人の“子供たち”の存在も、山本の脳裏をよぎった。埼玉・大宮開成高校のアーチェリー部員だ。同部の顧問を務めているが、今年4月からは代表合宿、海外遠征が続き、接する時間が限られた。アテネ出発前日の今月6日、携帯電話に『インターハイ予選で敗退』の報が入った。「自分が指導できなくて申し訳ない。せめて自分がメダルを獲ることが、部の士気につながる」。自分自身に言い聞かせ、決戦の舞台に立った。

 「子どもに恥じないよう、プレーすることを心がけていました。(銀は)仕方ない、あと20年かけて金だね」と、ちゃめっ気たっぷりに笑う山本。不惑の銀メダリスト。アテネの太陽の下、日焼けした顔は、どこまでも若々しかった。

山本 博(やまもと・ひろし)

 ★生まれ&サイズ 1962(昭和37)年10月31日、神奈川県。41歳。1メートル70、70キロ

 ★経歴 神奈川・保土ヶ谷中でアーチェリーを始め、中学3年で全日本選手権初出場。横浜高から日体大をへて、現在は埼玉・大宮開成高教諭。五輪初出場の84年ロサンゼルス大会で銅メダル。学生時代には前人未到のインターハイ3連覇、インカレ4連覇を果たした

 ★山本先生 埼玉・大宮開成高で、保健体育の教諭。アーチェリー部の顧問

 ★スポーツ交流 今大会の目的の1つに「普段は会うことのない他競技の選手と交流を深めたい」と掲げる。アテネに出発する成田空港では柔道女子の谷亮子と旧交を温め、初出場の選手にも積極的に声をかけた

 ★趣味はバイク鑑賞!? 無類のオートバイ好きで、現在は2台目のマシンを所有。けが防止のために運転はせず、自宅で眺めている



データBOX
五輪の年長メダリストとしては、日本では1984年ロサンゼルス大会射撃で金の蒲池猛夫の48歳が最年長。世界では1920年アントワープ大会射撃で団体銀のオスカー・スパーン(スウェーデン)が72歳だった。スパーンは8年前のストックホルム大会の同種目で64歳で金獲得。

山本が五輪では20年ぶりのメダル獲得。これは日本メダル獲得選手では最長の"ブランク"。それに続くのが、92年バルセロナ大会のレスリングフリースタイル68キロ級で銅、84年ロサンゼルス大会で同62キロ級で銀の赤石光生らの8年。



41歳のアスリート
 山本と同じ41歳のアスリートは、アテネ五輪の日本選手団では宇津木麗華(ソフトボール)がいる。通算200勝を達成したプロ野球・工藤公康投手(巨人)や全米プロゴルフ選手権を制したビジェイ・シン(フィジー)も。カール・マローン(バスケットボール)、元統一世界ヘビー級王者イベンダー・ホリフィールド(ボクシング)、全日本プロレス・武藤敬司らがいる。


日本アーチェリー史
 1947年に創立した日本洋弓会が、56年に日本アーチェリー協会と改称し、これを機に全国的に普及活動を始める。61年の第21回世界選手権(オスロ)に、日本チームが初参加。五輪では72年のミュンヘン大会から正式種目となり、日本勢は女子個人・秋山芳子の17位が最高成績だった。続く76年のモントリオール大会では道永宏が銀、84年のロサンゼルス大会では山本博が銅メダルに輝いている。


アーチェリーのルール
 五輪では1つの標的を狙う、ターゲットアーチェリーで争う。標的の直径は1メートル22で、色の色環帯(中心から、黄、赤、青、黒、白色)が10個の得点帯に分割され、直径8センチの中心が10点、外に向かうのに比例して1点ずつ少なくなる。
 発射地点からの距離は70メートル。個人戦は、まずはトーナメント組み合わせを決めるためのランキングラウンドが行われ、出場全選手が72本を射つ。トーナメントでは1試合に18本、対戦する選手は40秒の制限時間で交互に射つ。



著作権、リンク、個人情報について